私は、平凡だとか、普通だとか、そんなふうに他の人から言われることが多かった。
だから、私は、小さいころから、
「普通」というものが、
一番いい!
というふうにも思っていたのである。
特に飛び出る才能もなく、とりわけ美人でもなく、賢くもなかったが、何でもそつなくそれなりにこなし、物事をやってきたから。
私はとてもいい子ちゃんだったのである。
大人になって社会人になって働くようになり、いつだったか「きーちゃんは、普通でいいね!」って、言われたことがある。
その反面、普通って何??
そんな違和感が脱ぐい切れないのに口では「そう~それが一番だよね」と、笑って言っていた。
人の性格に、普通っていうのがあるのだろうか(;一_一)
まあ、人なりに愛想だけはよかったのかもしれないが、
実は、その”普通”っていうのが、嫌で嫌でたまらなかったのである。
しかし、近年、なぜそんなことを彼ら。彼女らが言っていたのかがわかったのである。
それは、私という人を見ていなかったからなんだということを。
だから、私のことをわかっていない人に、そんなことを言われても納得が出来なかったんだよね。
それは、表面的な付き合い。
ながらでの、流しのコミュニケーション。
本当に、私という人を理解しようとしていたなら、そんな言い方はしないと思う。
場を繕うことが悪いわけではないが、正しい人間関係を築いていきたいなら、自分の感情をきちんと伝えるべきだし、その感情がわかないのなら、その場しのぎでその人となりを評価するようなことはキズつけるだけではあるまいか。
よくわからないなら。そう言われた方が、違和感は感じなくてすんだかもしれない。
まあ、今言えるとしたら、その人たちは私にとって正しい人ではなかったんだということ。
だから、子供たちに「あなたは、いい子ね!!」
なんて、決して言いたくないのである。
そんな表面的なことをいっても、こそがしい(くすぐったい)だけで、なんも嬉しくないから!
褒めて育てるとはいうが、その子の、どんなところが素敵なのか。なんでそう思うのかを、ちゃんと見つけて言ってあげたい。
その子の行為や言動の奥にあるもの。
ピッカピカに光っている物を見つけてあげるのも、私が出来る一つの役割ではないだろうか。
その子の心の鍵が開くのは、そんな本質に触れた時なんだと思う。
感動や共感も、その窓が鍵なのかもしれない。
心からの嬉しさとか喜びとは、その中から生まれてくるのだと思うのです。
私は、自分自身ではとても極端な人であると、
思っている。
それを知ってくれて、
わかってくれた人には、
私という人間を認めてくれた!
という意識にしてくれる。
それは、
あ~~~生きててよかったと思う瞬間ww
(ちょっと大げさかもしれないが、、、)
これは魂(スピリット)に語りかけられた瞬間である。
だから動かされるのである。心がときめき、ワクワクするのである。
この極端な部分が、激しくもあり、強さでもあり、自分の源であるということを知ったのは、ヒューマンデザインを知ったからである。
ヒューマンデザインでリーディングしていると、そんな瞬間に立ち会うことがたびたびある。
自分がどういう人なのか。
どういうことに長けているのか。
人の個性に、”普通”というものは、ない。
そしてそれは、いい・悪いではなく、ただ、あなたであるということ。
あなたという、オリジナルな存在だということ。
それを伝えることは、もしかすると最高の褒め言葉なのかもしれない。
しかし、この褒め言葉は、相手を”褒める”という行為ではないと、私は思うのである。
褒めるとは上から目線で、配下の者に使う言葉である。
ですから、このデザインを伝えるということは、その人を理解し、認め、尊重すること。
相手の個性をいい・悪いではなく、そのままのあなたを受け入れてあげることなのである。
だから、一見弱みと思われるところも、捉え方を変えてみてみることで、最強の武器になるのである。
時に、自分を普通といわれて腹正しかったのは、自分の意志が弱く優柔不断で、しかも怒られるのが嫌で、自分の言いたいことを言えなかったから。
それは、ある意味、協調性をもって相手に合わせることが出来る柔軟な人でもあるということ。
いい変えれば、一見打たれ弱くは見えるが、実はとっても底知れぬ強さも持ち合わせているのである。
いいとか、悪いとか。
そんなことは全くして関係ないのである。
言われて、自分がどう感じたかが大切なのである。
私は私。
自分は自分。と自信をもって言えることが出来た時。
目の前に自分の道が繋がっていくのである。
※注意
褒められること自体に違和感を持っているデザインの子もいること。周りの大人は、知っておくことも必要です。